鳴らない電話


<01.音楽>

 私の彼は今、私の側にはいない。

 私たちは、彼が県外の大学へ進学した今年の春から、遠距離恋愛をしている。
 遠距離恋愛は上手くいかないと、多くの人が口を揃えて言うが、三ヶ月前の私は、そんな定説など信じてはいなかった。
 少なくとも、自分たちには当てはまらない事だと思っていた。

 三月のよく晴れた暖かな日。

 新幹線の発車ベルが気ぜわしく鳴り響くホームで、地元を離れる彼を見送りながら、私は確信していた。
 私たちならば、大丈夫だと。
 新幹線の窓越しに手を振る彼を見ていると、二人を隔てる距離も、会えない時間も、そう大した問題では無いような気がした。
 その時の私は、彼と共にある幸せな未来を信じて疑わなかった。

 だけど今、私は思う。
 遠距離恋愛は、やはり上手くいかない と。


 私は、ベッドに身体を投げ出して大きくため息をついた。枕に顔をうずめて、机の上に置いたままの携帯電話の事を思った。
 私の白い携帯電話。赤いトンボ玉のストラップが付いている。
 私と彼との間にある六百七十八キロメートルもの距離を、ほんの数回のコール音で飛び越えてしまう魔法のハコ。
 いつもなら、エリック・サティの『ジュ・トゥ・ヴ』の軽快なメロディと共に彼の言葉を、彼の声を私の元へ届けてくれるはずのそれは今、死んだようにひっそりと黙り込んでいた。

 彼からの連絡が途絶えてからもう三日になる。
 電話はもちろん、携帯にもパソコンにも彼からのメールは一通も届いていない。
 もしかしたら手紙かもしれないと思って、郵便屋さんのバイクの音が聞こえる度に表へ走り出たが、慌てて玄関のドアを開ける私の手に渡されるのは、いつも下らないダイレクトメールばかりだった。
 ひょっとしたら、通信の原点に返って伝書バトを使う気かもしれないとも考えて一日中窓を開け放しておいたが、蚊や羽虫などの小さくて気味の悪い虫が、沢山入ってきたせいだった。

 私はくぐもった声で、懐かしいサティの音楽を口ずさんだ。
 もちろん、顔は枕に押し付けたままだ。
 思わず身体を揺らしたくなるような、緩やかで楽しげな電子音が聞こえると、私の鼓動まで、曲に合わせた三拍子になる。

 着信音に・・・それも、恋人からの指定着信音に、教科書に乗っているような古い曲を入れている女子大生など、今時そうそういない。
 普通なら、流行のラブソングなど、もっと「それらしい」曲を指定するのだろう。
 友達からも散々不思議がられたが、私には私なりのちゃんとした理由がある。

 初めて彼と二人で帰った時に聴いた思い出の曲なのだ。

 駅前の大型ビジョンで流れていたCMの音楽だった。たしか、自動車のCMだったか。
 軽やかでいて、どことなく密やかなメロディーに私は思わず立ち止まった。道端で何気なく聞いた音楽…それも、ただのピアノ曲だ…を気に入るなど、初めての事だったのだ。

 「どうしたの?」
 「ううん、この曲、いいなあって…」
 「ああ、サティだろ?俺も好きだよ」

 彼は、音楽選択クラスだった。
 (ちなみに、私は美術選択だ)
 一年のときの音楽の授業で、この曲を歌わされたのだという。

 「歌う?歌詞、あるの?」
 「あるよ、もう忘れたけど。フランスの歌謡曲だって、キタザワが言ってた」

 教科書片手に大きく口を開けて歌う男子高校生(彼は一年生のとき、男子クラスだった)。
 うんうんと頷きながら、いい気分でピアノを弾く北沢先生。
 先生は、体格の良い中年の男の人で、学校一ピアノが似合いそうにない風貌の持ち主だ。演奏の腕は確からしいが、歌声に自信がないらしく、自分では絶対に歌おうとはしないと音楽クラスの他の友達から聞いたことがある。
 この甘い音楽にはあまりに似つかわしくない光景を想像して、私は思わず笑ってしまった。

 「何笑ってるんだよ」
 「いや、なんだかおかしくて…」
 「失礼な」
 「ごめん、ごめん。ところでさあ、この曲、なんていうの?」
 「『ジュ・トゥ・ヴ』」
 「何それ?」
 「フランス語だよ。元がフランスの歌だろ、歌詞は日本語のが付いてるのに、題名だけフランス語のままだった」
 「変なの」
 「だよなあ」

 その会話から、私たちはそれまでよりも親しくなり、「彼氏彼女」と呼ばれる間柄になった。
 きっとあの曲が、私たち二人を結びつけたのだ。

 ジュ・トゥ・ヴ。
 あなたが欲しい。

 携帯電話を操作して、以前に彼から来たメールを開く。
 画面に並ぶ彼の言葉。
 私は、文章にも個性がある…のだと思う。手書きはもちろん、そうでないものでも、書いた人間の人となりが自然と見えてくる。パソコンでやり取りする長い文章でも、携帯に送られてくる短い一言でも、彼から来るメールには、いつも、彼らしさが溢れている。

 私は、ごろりと寝返りを打った。
 白い天井を見つめながら、ぼんやりと考える。

 何故、こんな事になってしまったのだろう。
 私は……私たちは、どこでどう間違えたのだろう。

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