花の下にて

< 二.>

ここに来る前、彼は「義晴」という名を持っていた。
 数々の内乱を鎮め、ここ最近都で勢力を伸ばしてきた有力武家の一人息子。幼い頃から聡明で、将来は立派な侍にと誰もが信じて疑わなかった。
 義晴自身も、物心ついた時分から大きくなったら侍になるのだと心に決めていた。馬に乗って颯爽と野を駆ける伯父は、いつだって彼の憧れだった。伯父のようになりたくて、学問も剣術も馬術も人一倍努力した。
 けれど、そんな周囲の期待や己の夢は、ある時突然覆された。彼がその小さな手で弓を引くことは、もうない。

 義晴は当主の実子ではなかった。戦で父を、流行り病で母を亡くしたところを、父親の兄だった当主に引き取られたのだ。伯父夫婦には子供がなく、その弟の遺児である義晴は次期当主として育てられた。優しい伯母、頼もしく時に厳しい伯父。二人とも、義晴をまるで自分たちの本当の子供のように可愛がってくれた。
 けれど、昨年、義晴が十になった正月の事だった。元服や縁談の話が囁かれだした頃、もう子は産めないだろうと思われていた伯母が身ごもったのだ。初めのうちは、弟か妹ができるとただ喜んでいた義晴だったが、手放しに伯母の出産を待ち望むことのできる時間はそう長くは続かなかった。

 伯母の懐妊が明らかになって以来、家の者たちの義晴に対する態度が妙なものになったのだ。それはほんのわずかなものだったが、決して気付かずに過ごせる類のものではなかった。

 前の日まで若、若と可愛がってくれていた家臣が、急によそよそしくなった。剣の稽古を付けてくれと頼みに行っても、誰も彼も苦虫を噛んだような顔をして首を横に振る。中には、義晴が庭に出て行った途端に慌てて刀や弓をしまってその場を立ち去ってしまう者もいた。一人きりになった中庭で、刀に見立てた木の棒を手に立ち尽くしたのは一度や二度のことではない。いつも、義晴が行くと笑顔で出迎えてくれ、こぞって稽古を付けてくれた人々に拒まれた時の、身体の中心が冷やされるような感覚は今でもはっきりと思い出すことができる。
 義晴を避ける人々がいる一方で、それと同じくらい多くの家臣がやたらと彼の元に集まってくるようになった。彼らは皆一様に、義晴の顔色を伺い、大袈裟な褒め言葉ばかりを口にした。よそよそしい態度を取られるのも辛かったが、必要以上に若様、若様ともてはやしてくる家臣に囲まれるのも、義晴にとっては居心地の悪いものだった。人気のない廊下で、大して話をしたこともない、顔も名前もよく知らない従者から「私は若の味方です」などと訳の分からないことを言われて腕をつかまれたときには、思わず閉口したものだ。

 家臣や侍女たちほどあからさまではないにしろ、伯父や伯母の態度も以前とは変わってしまった。二人とも、難しい顔をして話し込むことが多くなった。けれど、彼が近づくと、話はぴたりと止む。そんな時の伯父と伯母は、決まっていつも以上に優しかった。伯母のお腹が大きくなり、産み月が近づくと、ますます館の雰囲気はおかしくなっていった。

 周りの者が変わってしまったことの理由が分からず、ただ首を傾げるしかない義晴を見て、実の両親がまだ健在だった頃から自分の面倒を見てきたのだという乳母は、「おかわいそうに」と言いながら涙ぐんだ。なすがままに抱きしめられた乳母のふくよかな腕の中は、日に干した布団と同じ匂いがした。

 館の空気を変えてしまったものが何なのか、そのときの義晴には分からなかった。けれど、自分以外の皆はそれが何か知っている。何か大変な事が起こっているのではないかという恐怖にも似た困惑と、どこか遠くへ置き去りにされてしまったような疎外感。何が何だか分からないまま季節は過ぎ、伯母は赤ん坊を産んだ。男の子だった。

 赤ん坊が生まれても、屋敷内の目に見えない混乱は収まることがなかった。むしろ、ひどくなっていったのではないだろうか。誰もが彼の前では作り笑いを浮かべ、彼の目の届かない所に行くなり寄り集まって噂話を始める。一体何だ、何なのだ。困惑は日に日に増すばかりだった。
 どこにいても向けられる、憐れみと敵意の入り混じった視線。義晴の頭の上で、音もなくぶつかり合い、見えない火花を散らす家臣たちの野心が、屋敷のいたるところで感じられるようになっていた。

 もしかしたら、自分は何かとてもいけないことをしてしまったのではないだろうか。伯父や伯母を深く悲しませるような何かを。やり場のない不安と恐れを抱えた義晴は、いつしか塞ぎがちになり、一人で過ごすことが多くなった。なるべく誰とも顔を合わせないように、息を潜めて一日一日をやり過ごす。そんな日々が十日ほど続いたある日、義晴は久しぶりに伯父夫妻の元へ呼び出された。


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