花の下にて

< 一.>

花が揺れる。薄紅色の花びらが風にそよいで揺れている。
 目の前の木は、今までに見たどの桜の木よりも大きかった。
 恐らくは何百年も前からここに立っているのであろうその木の、ごつごつとした幹は太く、枝は空一杯に広がっていた。
 一杯に広げた生き物の手のようなその枝に、今はにびっしりと花がつき、視界を多い尽くしていた。
 僅かに頭を垂れて優しげに揺れる小さな花々はとても美しく、彼は思わずその場に立ち尽くした。
 言葉すら奪うほどの光景に、一瞬全てを忘れた。
 悲しみも、悔しさも……淡い絶望すらも。

 「……春、芳春……ほうしゅん!」
 大声で呼ばれて、一人の子どもがはっと振り返った。その拍子に手の中の釣瓶がつるりと滑り、井戸の中へ落ちた。ぽしゃんという音が辺りに響く。
 ああ、まただ、と芳春と呼ばれた子供は軽く唇を噛んだ。呼ばれたらすぐに返事をしなくてはいけないのに。そうしようと思うのに。
 名前を改めて半年余り。芳春と呼ばれたときに感じる、借り物の着物を着せられているような違和感はどうしても彼の中から消えてくれない。慣れよう慣れようと思うほど、他人の名前のような気がしてならなくなってしまう。
 彼を呼んだのは、彼よりも三つ四つ年上の少年だった。こちらへ小走りに駆けてくる。
 「何度も呼んだのに、どうしたんだ」
 広い額とくりくりとした目という愛嬌のある顔をしたその少年は、名を啓経と言った。芳春よりも三カ月ほど前にここでの生活を始めた、いわば兄弟子だ。
 啓経にとって、芳春は初めて出来た「弟弟子」らしく、何かと世話を焼いてくる。
 「すみません、ついぼうっとして……」
 芳春は、井戸の縁を見つめたまま口ごもった。半年前に突然付けられた名前に、まだ慣れる事ができないのだとは言えなかった。

 「桜があまりにもきれいだったもので」
 そう言って頭上にそびえる木を見上げると、啓経も釣られたように目線を上げて、確かにな、と笑った。
 「この桜は有名だからな。けど、あんまり見とれてるなよ」
 ひとつのものに囚われすぎると、後で痛い目を見るからな。
 何事にも、囚われることなかれ。
 和尚が決まって説教の最後に言う口上を大袈裟な口調で真似る啓経に、芳春がはいと素直に頷いた。それを見た啓経は満足そうに頷き、うむ、よろしい、とまたも和尚の口真似をする。
 その声が余りにもったいぶっていておかしかったので、芳春は思わず吹きだした。啓経も自分で自分が滑稽になったのか、肩を震わせて笑っている。

 「それはそうと、お前、水汲みは……まだみたいだな」
 ひとしきり笑った後、啓経はそう言いながら芳春の足元に置かれた水桶を見た。先ほど釣瓶を落としてしまったのだ、中身はもちろん入っていない。
 「……あ、すみません。すぐ……」
 「良いよ、ここは俺がやっておくから。それより、和尚様が呼んでるぞ」
 小さな弟や妹がいたと言っていたからだろうか、啓経はとても面倒見が良い。芳春が何か失敗をしても、嫌な顔ひとつせずに助け舟を出してくれる。
 「すみません、ありがとうございました」
 礼は良いから早く行け、と言う啓経の言葉に、芳春は再度深く頭を下げると本堂に向かって駆けだした。
 名前と同様、未だ慣れないつるりとした頭を、春の暖かな風がふわりと撫でていった。


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