赤い恋人

<番外編 小さな黒いライバル>

 「……面白くない」
 じりじりと太陽が照りつける午後の公園に、不機嫌そうな鳴き声が小さく響いた。
 声の出所は、噴水の側に置かれたベンチの下。東屋などがないこの公園の中での数少ない、日差しを避ける事が出来る場所だ。
 一日中日陰になっているせいでひんやりとした地面に腹ばいになって、彼は外の世界の眩しさに目を細めた。ベンチの陰から一歩でた外には、むせ返る熱気が満ちている。目の前にある噴水の淵の模様が彼の目の前でゆらゆらと揺れた。
 まるで水の中のようだ……と思った途端にある事を連想して、彼は低く唸った。
 「……全く面白くない」

 事の発端は三日前。飼い主の友人らしい人間が、ビニール袋を持って尋ねてきた。
 「これを水槽に入れておくと、汚れを食べてくれる」
 そんな話が居間から聞こえてきたので、最初は書斎にある金魚鉢を掃除するための何かを持ってきたのだろう……としか考えなかった。
 金魚鉢の事となれば、彼にとっても他人事ではない。何しろ、最愛の彼女の住みかなのだ。一体何を持ってきたのだろう、彼女の体に悪いものでなければいいが……と思いながら何食わぬ顔を装って居間に行くと、背の低いテーブルの上に置かれたビニール袋の中にいたモノと目があった。
 その時の事を思い出すたびに、彼は今でも自分の顔がしかめ面になるのを感じる。新しいエアポンプか、水草の類だと思ったのだ。生き物だなんて聞いていない。
 あの日、談笑する人間二人の傍ら、ビニール袋の中でひっそりとうずくまっていたのは、黒々とした殻を持つ小さなタニシだった。

 日が西へ傾いて辺りが幾分涼しくなった頃になって、ようやく彼はベンチの下から這い出して家路に着いた。家に帰れば可愛い彼女に会えるというのに、彼の足取りは重い。自慢のヒゲも、口に咥えたホウセンカの赤い花よろしく萎れている。
 生垣の隙間から庭に入り、彼女の部屋の窓の下に立つと、やたらとよく響く甲高い声が聞こえてきて彼はぐったりと肩を落とした。昼の間に飼い主が考えを変えてあいつをあの金魚鉢から追い出してくれないかという希望は、今日も儚く消えたようだ。
 今日はもう行くのはやめようか……と思いかけて、彼ははっと身震いをした。
 俺はあいつに会いに行くんじゃない、あいつよりも長くあの金魚鉢の中にいる彼女に会いに行くんだ。
 彼女も俺を待っている。俺が遠慮する必要はどこにある?
 そう思い直した彼は、勇ましくひげをピンと張って窓枠に飛び乗るべく地面を蹴った。

 「……で、俺はそこでその犬の尻尾から手を離した!ヒューン、ボトーンで着いた先がご馳走たっぷりの水路だったってわけっすよ」
 「すごい、大冒険ね」
 部屋に入ると金魚鉢の中で、問題の新参者が彼女に熱弁を振るっているところだった。彼女のほうもすっかり話に聞き入っていて、彼が入ってきたことに気がつかない。
 窓際に背を向けて、新参者に寄り添うようにして水中を漂っている彼女を見て、彼の胸はずきりと痛んだ。ちょっと前までは昼寝のとき意外は常に窓の外を気にしていて、彼が来ると嬉しそうな声を上げて水面まで泳ぎ寄ってきたというのに。
 「その水路、食べるものには困らなかったんすけど、その分危険も多くて。毎日こーんな大きなザリガニに追いかけられてもう大変。あ、ザリガニって知ってます?」
 どうやら新参者は、彼がまだここに来る前にいた場所の話をしているらしい。生まれたときから人の用意した環境の中で生活してきた彼女にとって、外の世界の話はさぞ魅力的だろう。実際、彼がその日あった近所の猫とのやり取りや、外で見た珍しい物事について話してやると、赤い尾ひれをひらひらと降って喜んだ。
 「赤いやつや茶色いやつがいるんですけどね、どれも大きな鋭いハサミを持ってるんすよ。それに挟まれたら一貫の終わり」
 ザリガニくらい、俺だって知ってる。彼女が見たいと言うのなら、実物を捕まえてここに持ってきてやったっていい。彼はそんな事を心の中で呟きながら、金魚鉢の方へとゆっくりと歩いて行った。

 「まー、あっしとしては、ここも大いに魅力的なんすけどね。食べ物はあるし、安全だし、綺麗なお嬢さんまでいるときた。もー、言うことなし!さいこ……ひっ」
 彼が金魚鉢の中を覗き込むと、それに気付いた新参者が妙な声を出して大人しくなった。どうやら向こうも、彼を苦手にしているらしい。
 「遅かったのね。今日も外はやっぱり暑かった?」
 すっかり萎縮してしまった新参者とは対照的に、彼女の方はぱっと顔を輝かせると彼の方へ泳いでくる。
 彼は、僅かな距離でももどかしいと言うように懸命に尾ひれを動かす彼女に目を細めると、口に咥えていたホウセンカを彼女からよく見える位置に置いた。
 「ああ、お陰でちょっと萎れてるけど……」
 「きれいね。これは何ていう花?」
 全く臆することなく彼に話しかける彼女を、新参者はぎょっとした顔で見ていた。それはそうだろう、自分たちを見れば誰でも普通は驚くはずだ。
 彼は心の中でにやりと笑うと、新参者の方をちらりと見た。丁度いい機会だ、からかいついでに自分と彼女との関係をはっきりと分からせておこう。

 「俺の事好きか?」
 彼は水面に顔を近づけて囁いた。小さな、でもはっきりと聞こえる声。きっと新参者の耳にも届いただろう。
 彼の唐突な問いかけに、彼女は恥らいながらもこくりと頷いた。その体は、いつにも増して赤い。
 「あなたは?」
 上目遣いに聞き返されて頭の芯が痺れそうになったが、ここで冷静さを失ってはいけない。彼は必死でポーカーフェイスを保ちながら、水の中へ前足を差し入れた。途端に、金魚鉢の片隅から新参者の悲鳴にも似た声が上がる。
 「おっ、お嬢さん!早く逃げてください!あっしは知ってるんです、そいつは危険なんですよ!」
 新参者の慌てた声に、彼女は不思議そうな顔をした。彼は彼女にとって危険なものでもなんでもないのだ。
 「早く!早く逃げないと食べられちまいますよ!お嬢さんったら!」
 新参者は大声で喚き、何とか彼の手の届かない所へ逃げようと必死で金魚鉢の側面を這い回っている。その様子を横目で見ながら、彼は彼女に手を差し出した。優しい目で彼女を見つめ、甘い声で言う。
 「愛してるよ」
 照れたように体を揺らして、彼の手の平に身を寄せる彼女。それをぽかんと口を開けて見ている新参者に、彼は思い切り意地悪そうな声で言った。
 「誰が誰を食べちまうって?」
 「あ……え……ええーーーっ!?」
 目の前で繰り広げられた出来事にやっと思考回路が追いついてきたらしい、新参者は今度は驚きの叫び声を上げた。
 「えっ、えっっっ!!お嬢さんは金魚で、あっしはタニシで、そこにいるのは猫で……お嬢さんが猫と!?」
 冗談でしょう?と、すがるような目で彼女を見る新参者に、彼は更に追い討ちをかけた。
 「悪いな、冗談じゃないんだ」

 「……さっきは失礼いたしやした。お嬢さんとね……旦那とは本気で好き合ってらっしゃるんですね」
 ありえない、信じられない……と頭を抱える新参者を見て、彼は小さく笑った。信じられないのも無理はない、自分でもこの気持ちを認められるようになるまでにかなりの時間が掛かったのだ。
 「好き合ってるってそんな……」
 恥ずかしい、と俯く彼女を彼は手の中に引き寄せた。あと一息、釘を刺すのは念入りにしておかなければならない。
 「ああ、少なくとも俺は本気だ。変なのは自分でもよく分かってるよ。だからこそ、ライバルには早めに対処しておきたいんだ」
 そう言って新参者を見る。鋭い視線に射られた新参者がひっと息をのむのが水の動きを通して伝わってきた。
 「もしお前がこいつに手を出そうとするなら……」
 「しませんしません!あっしはここにちょっと間借させてもらってるだけです!食べ物もらって掃除させてもらってるだけです!お嬢さんとどうにかなるだなんてそんな、めっそうもない」
 そこまで一息で言い切って荒い息をつく新参者の姿に、彼は心の中でにやりと笑った。どうやら、彼の試みはうまくいったらしい。
 「本当か?」
 「ホントです、ホントですったら!全身全霊で掃除して、お嬢さんと旦那の仲が円満であるように何でもお手伝いさせていただきます」
 慌てた声でまくし立てる新参者と、それを笑いをかみ殺しながら聞く彼。ただ一人事情をよく分かっていない彼女が、不思議そうな顔をして彼の方を見上げている。その姿が愛らしくて、彼は彼女に微笑んだ。
 彼女に会うと心が弾む。彼女の事を考えると、胸が苦しくなる。今まで気にも留めなかったタニシにすら嫉妬を覚え、大人気ない態度を取ってしまう。
 どうやら自分は、この小さな赤い恋人に骨の髄まで溺れきっているらしい。手の平に感じる彼女の温もりに、それも悪くない、と思った。


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