<彼女の「彼」(1)>

「幸野、お前疲れてる?」
「え…?やだなあ、そんな事無いよ」
 片手を振って否定する彼女の顔は、ひどくやつれて青ざめていた。恐らく無理に作っているであろう、弾むような声と精一杯の笑顔が痛々しい。
 単なる受験疲れでここまで憔悴するものだろうか。
「そんなことより、ここなんだけど……」
 言いながら問題集を広げる瑞希の手元を、貴之(タカシ)はじっと見つめた。その小さな手の輪郭が、前よりも骨ばっているような気がして眉をひそめる。
「榎本?」
 首を傾げて呼びかける瑞希に貴之は「ああ、ゴメン」と謝ると、シャープペンシル片手にその指の指す箇所を覗き込んだ。
「これはさ、まずここで因数分解して……」
 言いながらノートの余白に式を書き始める。貴之の説明に瑞希が頷くたびに、色素の薄い柔らかな髪がさらさらと揺れた。
 頭と頭がぶつかりそうなほどの距離。ノートに視線を落とす彼女からは、ふわりといい匂いが漂ってくるようだ。そういえば、新しいシャンプーを買ったんだと数日前に小島と話していたっけ。
 昼休みの視聴覚準備室。ドアを隔ててすぐ隣にある放送室からは、後輩達のアナウンスの声が聞こえてくる。

 半ば放送部の部室と化しているその部屋で昼休みを過ごすことは、一年の頃から続いている習慣だった。放送の当番以外の日にも鞄片手に準備室へ足を運び、個性豊かな仲間と他愛のない話をするのは放送部員の特権だと、貴之は密かに思っている。。
 機材や古いレコードなどが雑然と置かれたその部屋の空気は、いつ来てもひんやりと乾いていた。防音効果のある作りになっているために、周囲の音も聞こえにくい。入試までのカウントダウンも、教師のお説教も、級友とのお喋りも、ここでは全てが遠くなる。二学期のメインイベントである体育祭を終え、本格的に「受験生」になってしまった貴之たちにとって、この準備室での昼休みは貴重な息抜きの時間でもあった。最近は勉強会になってしまうことが多かったが、お互いに教えあうのは一人で勉強するのとは違う面白さがある。
 引退したはずの三年がいつまでも部室にいるというのは後輩達にしてみれば煙たい事なのかもしれないが、ここは多めに見てもらおう。

 瑞希が見つめる目の前で、貴之は無言で問題を解く。紙とシャープペンシルの芯が擦れる音の上に、何の前触れも無く静かな振動音が重なった。その途端、向かい側で貴之の説明を頷きながら聞いていた瑞希の肩がびくりと強張る。
 彼女の纏う空気が一瞬のうちに変わったのに驚いて顔を上げると、瑞希は先程よりも青ざめた笑顔で席を立った所だった。
「教えてくれてる最中なのにゴメンね。電話みたい」
 明るい声でそう言うと、足早に部室の隅へと去っていく。暗幕代わりのカーテンに隠れるようにして受話器を耳に当てるその後ろ姿は、ひどく小さく頼りなく見えた。
 貴之は再びノートに視線を戻した。瑞希が戻ってくる前に解き終わっておこうと思うのだが、なかなか思うように筆が進まない。目はノートの上の数式に向けられていたが、意識は窓辺に集中している。他人の電話を盗み聞くなど褒められた事ではないが、いつもよりも研ぎ澄まされた彼の聴覚は低く押し殺された彼女の声を少しでも拾おうと躍起になっていた。
「……だから、その話は……」
 漏れ聞こえてくる声は、今にも泣き出しそうだ。

「心配ね」

 突然頭上から声が降ってきて、貴之は顔を上げた。
 いつも間に来ていたのか、小島聡子が長机に片手を付いて部室の隅で携帯電話片手に縮こまる瑞希を見ていた。
「幸野の事か?」
 分かりきった事を聞く貴之に、「当たり前でしょう」という顔をしてみせてから、聡子は形よく整えられた眉をひそめた。
「瑞希、最近いつもああだわ。彼氏とうまくいってないみたい…本人は違うって否定するけど」

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