永遠の夏に

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 図書室の鍵を箱の中に戻し終わると、一礼をして職員室を出た。
 最終下校時刻二十分前。
 廊下の窓から見えるグラウンドでは、野球部員が白球を追い、サッカー部員がボールをゴールに蹴りこみ、陸上部員がトラックの周りを延々と走っていた。あれだけ沢山の部活が同じ場所で一斉に練習していると衝突事故が起りそうなものだが、不思議な事にそのような話は一度も聞いたことが無い。きっと、部外者の私には理解できない秩序があの場所には存在しているのだろう。

 校門を出てすぐの角を曲がると、目の前にある交差点の信号が青から赤への点滅を始めた所だった。
 この交差点の歩行者信号は、赤の時間が長くて青の時間が驚くほど短い。いつも利用するバス停は通りを挟んですぐ向こう側に見えるのに、そこに行くまでに恐ろしいほど待たされる。
 早く渡ってしまわなければと駆け出す私の腕を何かが掴んで、横断歩道のこちら側へと引き止めた。
 「今、渡ったら危ないよ」
 …まさか…
 聞き覚えのあるその声に、私は思わず振り向いた。
 そこには、私が今一番会いたくない相手……杉浦要一が立っていた。


 「久しぶり。委員会?」
 「うん……杉浦君は?」
 「俺は部活」

 ホームルームが終わってから今まで水の中ですっかりふやけてしまった、と言って笑う彼に、私は先月告白された。

 夏休みの補習授業の最終日、図書室の分厚いカーテンを閉めるのを手伝いながら、彼は唐突に私に好きだと言った。「この本、良いよね」と言うのと全く同じ口調で。思わず通り過ぎてしまいそうな程にさりげなく。
 それでも、私の耳はその言葉を聞き逃さなかった。突然訪れた思ってもない事態に私は動揺し、持っていた鍵を取り落としてしまった。
 自分で立てた金属音に更にびくっとする私を見て、彼は少しだけ笑って言った。
 「返事は急がないから、少し考えてみてくれないかな」
 それから半月、私はまだ返事をしていない。
 彼と向き合うことから逃げている。

 彼は、一年生の時のクラスメートだ。
 今はクラスも別れて特にこれと言った接点もないが、時々図書室で顔を合わせて一言二言話をする。二人とも読む本の傾向が似ていて、あれは読んだか、あの本はどうだった…などと他愛ない話をするのはそれなりに楽しかった。
 でも、それだけだ。
 恋愛感情などこれまで一度も持ったことは無かったし(そもそも、そんな想いを抱くほど私は彼の事をよく知らない)、これからもきっとないだろう。
 それに、人を好きになるというのがどういうことなのか、私にはよく分からなかった。
 「好き」という言葉で相手を縛る、いつまで続くか分からない不安定な関係が怖かったのかもしれない。彼のいる世界に足を踏み入れるのが、私がいる世界に彼が入ってくるのが不安だったのかもしれない。
 彼から、自分から目を背けたまま、季節は夏から秋に変わろうとしていた。

 最終下校時刻十分前。
 帰宅部の生徒は一時間以上も前に下校しているし、生活指導の先生が校門の前に立って生徒を追い出しにかかるまでにはまだ少し時間がある。交差点で信号待ちをしている生徒の数はまばらだ。
 杉浦君は半月前の事など忘れてしまったかの様な顔をして、私の隣に立っている。夕闇の中に半ば沈んでいる、日に焼けた顔を私は見上げる事が出来なかった。出来る限り肩を竦めて息を詰め、全く青に変わる気配のない歩行者信号に「早く変われ早く変われ」と必死の思いで念を送る。
 私の心の声が聞こえたのだろうか、彼が不意に口を開いた。

 「それにしても、この信号、長いよなあ。『開かずの信号』って、雑誌に投稿しようかな」
 彼の言葉に、息が止まりそうな程に固まっていた心が一瞬緩んだ。
 「それを言うなら『変わらずの信号』じゃない?」
 「あ、それ良いかも」

 そう言って笑う彼の顔がまぶしく見えたのは、目の前を通る車のヘッドライトのせいだ。
 私は、紺色の学生鞄を持ち直した。
 視線を落としたその先にある自分の影は、もう夜の気配に包まれて輪郭が曖昧にぼやけてしまっていた。辺りを包むしっとりとした涼しさに秋の気配を感じて、ほんの少しの戸惑いを覚える。

 夏の終わりは、いつもどこか寂しい。

 誰もいない教室に一人取り残されたような、閉演間際の遊園地にいるような、そんな焦燥感と心細さが入り混じった不思議な気持ちになる。
 長く伸びた自分の影の黒さに気付くたび、半袖のブラウスから突き出た腕を撫でるひんやりとした風を感じるたび、意味も無く泣き出したくなる。
 まるで、小さな子供のように。

 「夏の終わりって、好きじゃない」
 思わずそう口走った私の言葉に、杉浦君が私よりも頭ひとつ高い場所で首をかしげた。
 「何で?」
 「何だか、『独り』が強調される気がするの」


 空は、紫とも蒼ともつかない不思議な色。
 世界は、昼と夜の狭間に落ち込んでいる

 交差点の歩行者信号の赤い色が、やけに明るく見えた。
 ついさっきまでは、日差しに負けて見えなくなるほどだったのに。

 夏の終わりの夕暮れは、本当に早い。あっという間だ。
 やがて車が速度を緩めて止まり、信号の放つ光が、赤から緑へと変わった。

 突然、彼が私の手を取った。
 何も言わず、迷いなど無いような力強さで。

 歩き出す直前に、ぼそりと彼がそう言った。

 「俺じゃ駄目かな」

 大きなその手に、私の左手はすっぽりと包まれている。
 彼の手はごつごつと骨ばっていて、その手を通じて伝わってくる感触は、女友達のそれとは全く異質のものだった。その力強さに、ああ、目の前にいるこの人は正真正銘男の人なのだ、と今更ながらに気付かされる。

 繋いだ手が熱い。
 まるで、そこにだけ夏の盛りがとどまっているように。

 街灯の白い光に照らされた彼の横顔は、しっかりと前を向いていた。
 こちらを見てはいないが、彼が私の一挙一動に意識を向けているのが痛いほど分かった。緊張していたのは私だけではなかったのだろう、鞄を持つ彼の左手は硬く握り締められていた。
 照れているような、怒っているようなその目に、少し汗ばんだ温かな手に、唐突に、この人が好きだな、と思った。

 誰でも、生まれてから死ぬまでたった一人で、前を見つめて自分の道を歩いていかなければいけない。
 でも、寂しい時、苦しい時、人は違う道を行く誰かと手を繋ぎ、そうしてまた先へ進む勇気を得る。
 私と彼は、手を繋いで歩いていける。
 先の事は分からないけれど、少なくとも今、この瞬間は、同じ熱を共有して進んでいける。

 私は、彼の手をゆっくりと握り返した。
 彼の足が歩く速さを落とし、私の方を振り返る。
 今は過ぎ行く夏の日の、澄み渡った青空のような彼の笑顔に、手の中の温度は更に上昇した。

 いつか、二人が分かれ道に立つその日まで感じていよう。
 永遠に終わらない、夏の世界を。

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