あいたくて

「ねえ、あなたは何ていう名前なの?」
深い闇の中で、私はそう問いかける。
返って来る答えを聞き逃すまいと息を殺して耳を済ませていると、壁越しに声が聞こえてきた。
「俵藤信明。君は?」
大人びた話し方、深みのある綺麗な声。
彼の声を聞いた途端、周りの空気が僅かだがさっと暖かくなったような気がした。
喜びと気恥ずかしさで胸がいっぱいになる。
「華。斎木華」
「華、か。綺麗な名前だね。ねえ、華。君は……」


大好きな人。でも、顔も知らない人。
私たちは、お互いの事をほとんど知らない。
出会ってもうすぐ一年、彼について知っているのは、名前と生まれた場所、生まれた年、それに、とても綺麗な声をしているという事だけ。
私は、彼に一度も会ったことがない。

私は、小さな港町で育った。
絹の着物に錦の帯。他の多くの姉妹と一緒に、それは大切に育てられた。
部屋の中に響く明るい笑い声。蛍光灯の白い光。肌が焼けるから、と太陽の光には当たらせてもらえなかったが、私は人工の明るさで十分満足していた。
「綺麗ねえ」という賞賛の声。道ゆく人の誰もが目を輝かせて私たちを見た。
そんな幸せな生活から引き離されて見ず知らずの場所に連れて来られ、知らない人たちに囲まれた時、私は途方に暮れた。
一人きりで狭くて暗い場所に押し込められた、我が身の不運を嘆いて毎日泣いてばかりいた。
そんな私を慰めてくれたのが彼だ。
私よりも3年早くこの場所に来たのだという彼は、右も左も分からなかった私に色々な事を教えてくれた。
彼に教えられて、私は今自分がどこにいるのかを知った。
なぜ、自分がここに連れて来られたのかという事も。
私たちは部屋の中では眠っている事がほとんどだったが、お互い目が覚めているときには壁越しに話をした。
断続的に訪れる浅い眠りの合間に私たちは言葉を交わし、恋に落ちた。
互いの顔も知らない、夢のような恋。
彼の存在を確かめる事が出来るのは、闇の中から聞こえてくる声だけ。
夢と現の間を漂いながら、今日も私は彼の姿をまぶたの裏に思い描く。
ねえ、あなたは一体どんな姿をしているの?
あれだけ綺麗な声なんですもの、きっとお顔も綺麗なんでしょうね。
短い夢の中で逢う彼は、いつも優しく微笑んでいる。

ガタンという音に、私は目を開けた。
しばらく続いた振動の後で、目の前がパッと明るくなる。
一年ぶりに見る日の光が眩しくて仕方が無い。
白い柔らかな手に抱き上げられるのを感じながら、私は「ああ、もうこんな季節になったのか」とぼんやりとした頭で考えていた。
開け放たれた窓からは、まだ冷たい…けれど、確かに温かな土の匂いを含んだ風が入ってくる。
早春の風。ここに来てから二度目の春。
この季節の一週間ほどを、私は今年も部屋の外で過ごす。
沢山の仲間と一緒にお菓子や甘酒を飲み、他愛もない世間話に花を咲かせる事の出来るこの季節。何もかも初めてだった去年は不安と寂しさでそれどころではなかったが、今年は素直に楽しむことが出来る。
五人の楽師たちが笛を吹き、太鼓を叩いて辺りは一層賑やかになる。
高く陽気に鳴り響く笛の音色は、楽師の中でも一番若い少年のものだ。
一年間一生懸命練習したんだろう、去年よりも格段に上手になっている。
「上手くなったね」
そう声を掛けると、笛を吹いていた少年ははにかんだようににこりと笑った。
「一年ぶりね、元気だった?」
「ええ、ありがとう。あなたは?」
一年前と変わらない仲間達の笑顔。はじけるような笑い声。
三人の官女達のお喋りに相槌を打ちながら、私は辺りをそわそわと見回した。
(信明さん……)
もしかしたら会えるかもしれない。そんな期待を胸に抱きつつ、周囲に視線を走らせる。
赤い毛氈を敷いた段の中ほど、桜の木の側に若い男の人が立っている。真っ直ぐに引き結ばれた口元と、切れ長の瞳。部屋の中で聞いた彼の声と目の前の青年の姿が私の中で重なる。私は思い切ってその青年に話しかけた。
「あの……」
私の声を聞いても、その人は顔色一つ変えなかった。
相変わらず真っ直ぐに前を見て、構えた弓を下ろそうともしない。
「あの……」
「何?」
もう一度呼びかけると、信明さんかもしれないその人は、横目で私の方をちらりと見た。鋭い視線に、一度は膨らんだ期待が音を立ててしぼんでいく。
それでも、心の底に僅かに残った希望と勇気をかき集めて、私はその人に尋ねた。
「あの……あなたは、俵藤信明さんじゃありませんか?」
「いや、人違いだ」
短く返ってきた答え。薄々分かってはいたけれど、実際に聞くとやっぱりがっかりしてしまう。
落ち込んでいても仕方が無いと、萎えた心を奮い立たせて周りにいる人に片っ端から訊ねたが、答える声はどれも私の望んでいたものでは無かった。
それどころか、『俵藤信明』という名前を聞いても、皆「そんな人は知らない」とばかりに首を傾げるばかり。
『俵藤信明』などという人は、最初から存在しなかったのかもしれない。
この中の誰かに、私は上手く騙されたのか。
それとも、私が自分の心を慰めるために見た夢の一つだったのだろうか。
ずっと支えだったのに。
優しい言葉も、励ましも、みんな幻だったのだろうか。
どうしようもなく悲しくなって、白い足袋に覆われた自分の足元に視線を落とす。
目じりに盛り上がった涙が落ちる寸前、少し離れた高い場所から声が降ってきた。
「その人、知ってるよ」
私は、その言葉にはじかれるように顔を上げた。
声の主は、私から見て向かい側に置かれた和箪笥の上に座っていた。
「本当?」
「うん」
ふさふさとした温かそうな茶色の毛の奥から人の良さそうな瞳を覗かせて、その人はのんびりと言った。
「俵藤信明だろう、よく知ってる。友達だもの」
好物は散らし寿司。好きな色は黒。好きな花は菖蒲(私は見た事が無いが、紫色をした大きくて綺麗な花なのだそうだ)。
太い、くぐもった声で語られる、私の知らない彼の姿。
夢じゃなかった。幻じゃなかった。嘘じゃなかった。
彼は現実にちゃんと存在していた。
悲しい事に涙し、楽しい時にはお腹の底から笑う事の出来る人だったのだ。
「多分、君の事だろうね。去年会った時に随分気にしてたよ。故郷を恋しがって、一人ぼっちでずっと泣いている女の子がいるって……その様子だと、もう大丈夫みたいだね」
その人の言葉に、私は去年の自分を思い出した。そんなに心配されていたのか。
「あの人の……、信明さんのお陰なんです。色々と励ましてくれたから……」
苦笑交じりにそう言うと、その人はふうん…と意味ありげな笑みを浮かべて、私の事をしげしげと見た。
「…あの、何か……?」
「いや、あいつが誰かを励ますなんて珍しいなあと思って。そうそう、信明からね、君がどんな女の子なのかよく見て教えて欲しいって頼まれてるんだ」
色が白くて、とっても可愛い女の子だったと報告しようと笑いながら言う。
いつの間にか私たちのやり取りを聞いていた周りの仲間がにやにやと笑いながらとはやし立てる。
その声を掻き消すほどに大きく鳴り響く鼓動。
心の温度がみるみるうちに上がっていく。
私は何となく気恥ずかしくなって俯いた。
早く彼に会いたい、声が聞きたい、そう思った。

「おかえり」
祭りの季節が終わって再び部屋の中に戻ると、優しい声が私を迎えてくれた。
私を包み込むように低く響くその声を聞くと、たちまち心が柔らかくなる。
「ただいま……外の世界でね、あなたの事を探したわ。ひょっとしたら会えるんじゃないかしらと思って」
私の言葉を聞いて、彼は困ったように口ごもった。
「華、ごめん。俺は……」
五月人形だから。
三月に飾られる君とは、会うことが出来ないんだ。
彼の言葉に、私は静かに頷いた。
外の世界でも同じ事を彼の事を教えてくれた、あの毛皮を被った人からも教えられた。
きっと、私と彼が会うことはこの先もずっと無いだろう。
その事実を、初めは悲しく思ったが、今はもう大丈夫だ。
顔を見ることが出来なくても、この手に触れることが叶わなくても、彼の優しさはこの壁越しに痛いほどに伝わってくるから。彼の存在を確かに感じることが出来る限り、私は彼を想っていられる。
「親切な人……クマの佐々木さんっていう人がね、あなたの事を色々と教えてくれたの」
話を聞いて、前よりももっと好きになった、と言うと彼は照れくさそうに笑った。
「あいつ、何を言ったんだ…?でも、また声が聞けて良かったよ。戻ってこなかったらどうしようかと思った」
心の中に、柔らかな風が吹く。ほんの少しくすぐったいその感触が、とても心地良い。この瞬間がずっと続けば良いと思う。
「私も……会いたかった。あなたの声が懐かしかった」
真っ暗だった私の世界を、優しく照らしてくれた人。
暗くて狭い部屋の中も、彼がいれば天国になる。
どうか、これからも声を聞かせて。
「いつか、会えたらいいね」
「そうだね、ひな祭りと子供の日が一度に来たら良いのにね……神様にお願いしておこう」
ある場所のある家の押入れの中で生まれた、小さな恋。
二人の笑い声が重なり合って、柔らかな闇の中に高く響いた。

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むだばなし
「あいたくて」でした。ひとりぶんげいぶ始まって以来の季節モノです。
…と、言っても微妙に(半月くらい)時期がずれていますが(汗)。
家の雛人形を片付けている最中に思いつきました。
飾られる時期が違うせいで絶対に会えない二人!こりゃあ凄いメロドラマだ!と思って書いたのですが、スケールはかなり小さいです。一つの部屋とその押入れの中だけで済んじゃう話だし。
お雛様カップルは他にも、色々あります。
エリート青年の右大臣と少しボケボケな三人官女とか、名門出身の三人官女とイケメン下男の駆け落ち計画とか。時間があればまた書きたいです。
最後になりましたが、ここまでお付き合いくださりありがとうございました。
ご意見・ご感想などいただけると嬉しいです。

2005.3.13  笹原奏
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