期限は二十日
誰にも気付かれずに、彼女を本気にさせること
そして
自分は、決して本気にはならないこと
この空虚なゲームの先で得られるものが何なのか、彼は知らない
<二十日小町>
放課後の第二校舎内。特別教室が多く集まるその校舎は、放課後になると人の気配がぐんと減る。ひんやりとしたコンクリートの廊下をたった一人で歩いていた誠は、和作法教室の前でぴたりとその足を止めた。
朗々と響く高い声。ぱしんと畳を叩く音。月・水・金曜の放課後、ここは百人一首部の練習場になる。
「佐久間センセイ」
開け放たれた扉越しに呼びかけると細い肩がぴくりと動いた。ただ名前を呼んだだけなのに、誠が側に行くだけで彼女はいつも動揺する。それはきっと、彼の事を意識している証拠だろう。なかなか順調だ、と彼は口の端で薄く笑った。
「九条君、どうしたの?」
ぱっと顔を上げ「教師」の表情でそう言った彼女に、誠は人懐こい顔で微笑んだ。異性に評判の良いこの笑顔の効果は、彼自身が一番よく知っている。
「センセイに会いたくなって」
屈託のない口調でさらりと言うと、案の上彼女は目を丸くした。「教師」のお面はあっけなく崩れ、頼りなく視線を彷徨わせている。きっと、何と答えるべきか必死で考えているのだろう。
「なーんて」
誠は声のトーンを上げると、鞄の中から古典のノートを取り出した。それを広げながら、上がり口に足を掛ける。
「予習してたんですけど、分からないところがあって……質問、良いですか?」
部活中すみません、と申し訳なさそうに言うと、彼女はそんなとんでもない!と首を振りながら立ち上がった。面倒見が良くて責任感が強い。まるで教師の鑑のような人だ……本当の教師ではないのだけれど。
予想通りの展開に心の中で笑う俺は、彼女に案内されるままに部屋の隅にあった卓の前に腰を下ろした。体の脇に鞄を置きながら、何気ない風を装って尋ねる。
「崎谷先生はいらっしゃらないんですか?」
彼女は百人一首部の顧問ではない。在学中に部員だったから、部活がある日の放課後はここで後輩達の面倒を見ているだけだ。いつもは、崎谷という初老の国語教師が部員の安全管理と指導をしている。
「今日はいらっしゃらないの。会議があるとかで……」
崎谷先生にご用だった?と尋ねる彼女には答えずに、誠はポケットから財布を出しながら、教室の真ん中で札とにらめっこしていた男子生徒の肩を叩いた。近年衰退の一途を辿る百人一首部の、彼は唯一の一年生であり、まともに活動しているたった一人の部員だった。
「なあ、ちょっと頼まれて欲しいんだけど」
「な、何ですか?」
入学して数か月足らずの一年生にとって、三年生というのはまさに雲の上の存在だ。ましてや、知らない人間に話しかけられたとあってはそれは緊張するだろう。誠は、襟元の学年章を相手によく見えるように気を配りながら相手の顔を見下ろした。
「お茶、買ってきてくれないかな。五百ミリリットルのペットボトルのやつ」
ペットボトルの飲み物は、校内の売店には売っていない。誠は、机の上に五百円玉を置いた。
「俺と先生と、君の分の三本。種類は何でも良いから……あ、でも出来ればセブンまで行って欲しいんだけど」
ポイントシールを集めているんだ、とわざと学校から遠いコンビニを指定する。可哀想な一年坊主は、顔を赤くしたり青くしたりしながら頷き、五百円玉を握り締めると教室を矢のような速さで出て行った。
「く、九条君……?」
「さて……と」
これで、邪魔者はいなくなった。教室には自分と彼女の二人きりだ。滅多に人の来ない別棟の中という事もあり、周りの目を気にする必要もない。
誠は卓の側に戻ると薄くなった座布団の上に腰を下ろした。頬杖を突いて組んだ両手に顎を乗せ、困惑した顔の彼女を見上げる。
「さあ、始めましょうか、センセイ?」
夏虫の身をいたづらになす事も ひとつ思ひによりてなりけり
「夏虫の……古今の歌ね。『夏虫』というのは蛍をさす場合が多いけれど、この歌では……」
教科書に書かれた歌の一句一句をペンで指しながら説明を始めた彼女は、先週からこの学校に来ている教育実習生だ。誠の四回上の卒業生で、今は東京の大学の四年生らしい。専攻は国文学、既に教育系の出版会社に就職が決まっている。
辞書や文法書を片手に、懸命に話す彼女に相槌を打ちながら、誠は目の前で動く彼女の小さな手を見た。
ペンを握っているため緩く丸められた右手は、くっきりと浮き出た指の骨が綺麗に並んでいる。
「『いたづらになす』というのは、死ぬようにするということ。『おもひ』に掛けた『火』に虫が火にたかっていく様子でしょうね」
手から腕、胸元、口元。誠は真剣な、けれどもどこか冷めた目で彼女のパーツの一つ一つを凝視する。
「『なり』は断定、『けり』は感嘆。全体ではこの歌は……ねえ、九条君、聞いてる?」
誠の視線が彼女の鼻の頭を通過した時、彼女がぱっと顔を上げた。いつの間にか相槌を打つのを忘れていたらしい、怪訝な顔をする彼女とまともに目が合って、誠は一瞬息を止めた。
「聞いてますよ。……つまりこの歌は、『自ら炎に飛び込んでいく夏虫の姿に、切ない恋心に身をやつす己を重ねた歌』でしょう?」
すぐさま息を吸い込んで、薄い笑いを浮かべる。静かな調子でそう言うと、彼女は分かっているんじゃない、と気の抜けた声を出した。
「ごめんなさい。私、説明する箇所間違えたかしら……」
「いえ、この歌ですよ。でも、俺が聞きたいのはそんなことじゃなくて……」
誠は身を乗り出すと、卓の上に置かれたままの彼女の手に自分の手を重ねた。彼女がはっと息を呑む。
「どうして、『夏虫』なんかに例えるんでしょうね?」
蛍や蛾など、「夏虫」と呼ばれる虫たちは鳴かない虫ばかりだ。彼らは音を立てずに、燃え盛る火の中に飛び込む。恋の炎を燃やして、己の身を光らせる。
誰にも知られることなく、ひっそりと。
「俺は嫌だな、一人身をやつす恋なんて」
恋は一人ではできないのだ。想いを秘めて何になる?
焦がれた相手に自分のことを知ってほしい。自分のことを見てほしい。
だから、自分は声を上げる。遠い場所にいる相手を、自分の方へ振り向かせるために。
「ねえ、……千鶴」
重ねた手に力を入れると、彼女は慌てて視線を逸らした。ほっそりとした首筋に一瞬のうちに赤みが差す、捉えられた手が固く強張る。長い睫毛が、怯えたように震えていた。 自分の言葉や仕草に対して面白いほど反応する彼女の様子を、誠は冷静に観察していた。
熱っぽい口調で甘い言葉を吐きながらも、彼の心は冷めていた。
彼女のことは本気でもなんでもない、ただのゲームだ。
高校入学以来、いろんな女をとっかえひっかえし続けてきた誠に級友たちが持ちかけた、退屈で残酷な賭け。
教育実習期間の二十日間で彼女の心を手に入れることができれば誠の勝ち。
手に入れることができなければ彼の負け。
ルールは三つ。
「二十日間で彼女を振り向かせること」
「彼女に賭けの存在を知られないこと」
「誠自身は、決して本気にはならないこと」
「くっ……九条君」
焦りと戸惑いの混じった声で、彼女は放してくれと懇願している。
ゲームは簡単なはずだった。
自分が彼女に本気になることはない。どんな女にも、彼は本気にならないしなれない。
女の肌は柔らかくて良い匂いがして、ほんの短時間触る分には気持ちがいいが、長く触れ合っているとその生ぬるい体温に吐きそうになる。高い声は一言二言話す分には華があって良いが、長時間会話していると耳鳴りがしてくる。
彼にとって女は、ひと時の楽しい時間を過ごすだけの相手に過ぎず、そんな相手にくれてやる心を彼は持ち合わせてはいなかった。
常に冷めた心で相手の心理状態を見極めながら甘い言葉をささやき、身体に触れる。少しだけ行動に気をつけて上手く立ち回るだけで、どの女も拍子抜けするほど簡単に、心を彼に明け渡してくれた。
だから、年齢よりもうんと幼く見える実習生など造作もないと思ったのだ。二十日もあれば、振り向かせるのみならず随分良い思いもさせてもらえるだろう、そう思っていたのに。
「やめて」
彼女は自由な方の手で誠の肩を力いっぱい押した。彼がひるんだ隙を突いて、もう片方の手を彼の下から引き抜く。
目じりに涙を溜めて、彼女は誠をにらみつけた。震える声で、真面目に質問する気がないなら出て行ってくれと訴える。
「からかわないで」
背後の襖に肩をぴたりと着け彼女は言った。膝丈のスカートから伸びた足は、僅かに震えている。
まるで追い詰められた小動物のような姿に、誠は小さく苦笑した。どうやらやりすぎたらしい。
「からかってなんかいませんよ」
卓の端に置かれた百人一首の読み札を手の中で弄びながら彼は続けた。
「すみません、今日は急ぎすぎました。でも、俺は本気ですよ」
そんなはずはないと勢いよく首を振る彼女に苦笑しながら、信用ないなあ、と彼は独り言のように呟いた。
こんなに手間のかかる女は初めてだ。
「でも、最初に俺が言ったことはちゃんと覚えててくださいね」
センセイが俺が本気だって信じてくれるまで、俺のことを男として見てくれるようになるまで、センセイのところに通いますよ。
毎日毎日、朝も昼休みも放課後も。何度でもセンセイに会いに行きます。
誠は手の中の札の束から一枚を抜き出すと、彼女の前にそっと置きながら呟いた。
「『さしも知らじな 燃ゆる 思ひを』」
本当に、彼女は露ほども思っていないのだろう。
この追いかけっこが、誠にとって単なるゲーム以上の意味を持ち始めていることを。
ゆっくりと、けれど確実に育っている自分の気持ちに、彼は懸命に気付かないふりをする。
残された時間は、あと二週間。
誠が彼女を捕まえるのが先か、彼が自分の想いに飲み込まれるのが先か。
微かに吹いてきた風に、軒に下げられた風鈴がちりん、と鳴った。
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