遅れてきた大魔王

<番外編 甘くない贈り物 (2)>

  反対車線を走るバスの中に二つ並んだ紺色のコートの人影。そのうちの一つには見覚えがあった。記憶の中の彼女よりも長く伸びた髪が揺れる細い肩。辺りは既に随分暗く距離もあったが、見間違えるはずがなかった。
 倉田慎二はタクシーの窓から身を乗り出すようにして徐々に遠ざかる人影を目で追った。
「どうしました?知り合いの方でも?」
 夕暮れ時の道は混んでいた。なかなか進まない車にハンドルを指でコツコツ叩きながら、初老の運転手がバックミラー越しに彼を見た。

「え……?ああ、まあ。……すみません、ここで降ります」
 飛行機の時間まではまだあと二時間ほどあった。どうせ道は混んでいるのだ、このまま車に乗っていても空港に着くのはギリギリの時間だろう。ここで少しくらい寄り道したって構わない、空港へは地下鉄で行けばいいだろう。

 慎二はタクシーの料金を払うと、夕闇に沈む町に走り出た。ジャケットの隙間から入ってくる風は、思いのほか冷たかった。街灯の白い明かりに照らされた古ぼけた階段に足を掛ける。一段上るたびに、自分の中の時間が戻っていく気がした。

 歩道橋の上に立つと、彼女の声が聞こえた気がした。不機嫌そうな声。精一杯に背伸びをして、挑むように見上げてくる勝気な瞳。
 ペンキの剥げかけた手すりに手を掛けて、明かりの灯り始めた町並みを見下ろした。初めてこの景色を見た時には、全ての色が暗く、沈んで見えた。けれども今は違う。家々の明かりが、車のライトが、夜空に瞬く星が、こんなにも美しく輝いている。彼女も、数分前にはこうしてこの場所に立っていたのだろうか。

 そのまま歩いていると手に何かが引っかかった。手すりに、何かが結び付けられている。紐をほどいて手にとってみると、それは巾着袋だった。女の子が弁当を入れるのに使うもので、昔絵本の中で見たウサギのキャラクターがプリントされている。
「忘れ物か?」
 こんな場所にどうして、と首を傾げながら中を見るとのど飴の包みが入っていた。しかも、奇妙な事に未開封だ。この辺りで流行っている悪戯だろうか。

 元のあったように戻しておこうと巾着の中にのど飴を入れ、紐を両手で引きかけたところで慎二は何かを思い出したように手を止めた。あののど飴のパッケージは、ある時期彼が好んで持ち歩いていたものだ。
「……」
 慎二は、手の中の巾着袋を見つめた。街灯の明かりの下で、古ぼけたそれを隅から隅まで丹念に調べる。

「……あ」
 やっぱり。
 慎二の口元にみるみる笑みが広がっていく。

 何度も洗濯をしたのだろう、元は黒のマーカーで書かれたのだろうその文字はすっかり色褪せ薄れていたが、辛うじて読むことができた。

 『さくらぐみ こじまさとこ』

 慎二はのど飴の包みを開けると、一粒を口に放り込んだ。久しぶりに食べたのど飴は甘酸っぱく、ほんの少しだけ苦かった。

   『食べる?』
   『いらない』

 彼女のそっけない声が耳に蘇った。バックミラーの中で彼女の視線を捉えた時に、慌てて目を逸らす様が可愛らしかった。

 「食べる?」
 もしも今、あの時と同じように包みを差し出したなら、彼女はどう答えるだろう。

 ビルの向こうには一番星が明るく瞬いていた。白く真っ直ぐなその光は、彼を祝福しているようにすら思えた。
 手術は成功した。心配していた後遺症もない。ボイストレーニングを積んだ声は、もうすっかり元通りだ。一度失われた夢は、再びこの手の中に戻ってきた。

 慎二は夜空を、そして彼女の住む町を見て微笑んだ。

 今はまだ、会えないけれど。
 でも、どうか待っていて。

「もうすぐだ……必ず会いに行くよ」

 聡子ちゃん。

 彼はそう呟くと、歩道橋を後にした。
 さてこの巾着袋、一体どうやって本人に返そうかと笑い混じりに考えながら。


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