遅れてきた大魔王

<偽名の秘密>

 「聡子ちゃん、ほら。信号変わったよ」
 頭上から降ってくる声に、聡子は慌てて目の前にある信号機を見上げた。大きなスクランブル交差点に、ものすごい数の人がどっと流れ込む。
 「ごめん、ついぼうっとして」
 生まれ育った街とは桁違いの人と車の数に圧倒されながらそう言うと、隣に立つ男はにっこりと笑った。度の入っていないレンズの奥で細められた目に思わず見とれてしまうのは、惚れた贔屓目だけではないだろう。
 「この辺りは特に混雑してるからね。迷子にならないように気をつけて」
 男はそう言うと、聡子の手を取って横断歩道に足を踏み出した。つられて聡子も歩き出し、二人はあっという間に人の流れに飲み込まれる。絶え間なく聞こえてくる喧騒と、地元よりも数段早いペースで動く人ごみの中で、聡子は男に掴まれた手をそっと握り返した。
 聡子の目線よりも高い位置にある男の顎がぴくりと動いて、ああ、笑ったのだと思った。

 「で、どんなのが欲しいの?」
 首を僅かに傾けながら聡子を見下ろしている男は、名前を倉田慎二という。職業はミュージシャン。昨年は紅白歌合戦にも出場した、現在人気急上昇中のロックバンドのボーカルだ。
 「英語の辞書が充実してるやつ。あとは……」
 言いながら視線をやった先によそいきの表情をした慎二の顔を見つけて、聡子は慌てて目を逸らした。コンビニの店先にあったそれは、もうすぐ発売される新しいアルバムの、告知ポスターらしい。
 映像での露出はそう多くないとはいえ、「芸能人」の端くれである彼と付き合っているということは、聡子にとって最重要機密だ。まだ親にも話していない。人の口に戸は立てられないのだ。もしも不用意に他人に漏らしてそれが噂にでもなれば、聡子の今の生活は脅かされるだろうし、何より慎二の仕事に支障が出るだろう。誰かに気付かれて騒ぎになったら大変だからと、今まで慎二と一緒に外出することも極力避けてきた聡子だったが、慎二自身はそういったことに全くと言っていいほど無頓着だった。
 本人曰く、『自分には芸能人のオーラがないから、どこに行っても大丈夫』らしい。
 いつもいい加減なことばかり言う慎二のことだ、どうせ自分で思っているだけだろうと聡子は本気にしていなかったが、実際に一緒に街に出てみて驚いた。
 ステージの上では有り余るほどの存在感を放っている慎二に、誰も全く気付かないのだ。聡子が想像した以上に、慎二は周りの人々の中に溶け込んでいた。
 申し訳程度に伊達眼鏡をかけてはいるが、ほとんどテレビに映っているままの顔を晒した彼の前を、高校生くらいの女の子たちが通り過ぎていく。彼女たちの会話の中に慎二のバンドの名前が出てきたのを聞いて、聡子は思わず笑いを漏らした。自分たちが話題にしている人間がすぐ隣を歩いているなんて、きっと夢にも思っていないのだろう。
 「どうしたの?」
 何か面白いことでも?と尋ねる慎二に、聡子は何でもないと言うように首を振った。
 「和英と英和と英英、三つ入っているのが良いな。実際に使うかは分からないけど」
 今日のデートの目的地は、家電量販店だった。大学に入学して一ヶ月半、英語の授業のたびに分厚い辞書や教科書を抱えて学校内を動き回らなければならないことに疲れ果て、電子辞書が欲しいと言った聡子を、慎二が買い物に連れ出したのだ。何でも、上京したての頃に彼がアルバイトをしていた電機屋が、現在新生活セールをやっているらしい。
 「慣用句辞典なんかも入ってたら面白いよ。あとは、家庭の医学とか」
 慎二は電子辞書を愛用している。曲の歌詞や題名を考える時に使うために買ったのだそうだ。暇な時には適当なキーを叩いて出てきた言葉を眺めるのが面白いのだという。
 「人名辞典も良いよね。俺もいつか、あそこに載りたいなあ」
 「山田次郎の名前で?」
 だとしたら、相当後ろの方ね。そう言って笑ったとき、聡子の頭にある疑問が浮かんだ。

 「そういえば……なんで山田次郎だったの?」
 「え?」
 聡子の唐突な質問に、慎二は首を傾げた。先ほどよりも、角度が急になっている。
 「偽名よ。初めに会った時の」
 聡子が言いなおすと、慎二はああ、と納得したように頷いた。さり気なく聡子の手を引いて自分の後ろに下がらせ、進行方向からこちらに向かって走ってくる自転車を避ける。 
 「俺が次男だからかな。名前にも『二』って付いてるだろう?字は違うけど」
 だから太郎ではなかったのか。意外な事実に少しだけ驚きながら、聡子は更に尋ねた。
 「じゃあ、『山田』の方は?」
 「さあ、何でしょう」
 慎二はそう言うと、にっと唇の両端を吊り上げた。少しだけ意地悪そうに見えるその表情は、鼻の頭に載せられた黒縁の眼鏡に憎らしいほど似合っていて、聡子は思わずどきりとした。
 「おっ、お母さんの旧姓!」
 「残念〜。うちの母方の姓は村木なんだよね」
 聡子ちゃん不正解、と言いながら、慎二は聡子の頭に手を置いた。そうして、歩きながら背を屈め、聡子の顔を覗き込む。
 「聡子ちゃんが、『小島』だからだよ」
 「それってどういう……」
 聡子が呟いた時、通りの向こうから賑やかなアナウンスが聞こえてきた。テレビのCMで聞いたことのある音楽が、アナウンスの後ろで流れている。
 「本当は、『ベスト』や『淀橋』でもいいと思ったんだけどね。『安値世界一』に対抗するにはやっぱり『お客様安心価格』だろうってさ。あそこには働かせてもらった恩もあるしね……さあ、着いたよ」
 そう言って慎二は満面の笑みを浮かべた。しかも、ほんの少しだけ得意そうに。
 ……まさか。そんな下らない理由だったなんて。
 聡子は何も言えずに、目の前の入り口にでかでかと掲げられた全国チェーンの家電量販店のロゴマークを呆然と見つめた。
 アルファベットの「Y」の字と家の絵を組み合わせた形のそのロゴマークは、五月の明るい日差しの下で、ぴかぴかと赤く輝いていた。
 

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