大魔王の恩返し

<呼び名の秘密>

 夜十二時少し前。
 明日の予習を大方終えた聡子は、自主学習用にと配られたプリントの束を手に取った。
 受験生の聡子にとって、継続的な勉強は欠かせないものだ。毎日コツコツ積み上げることが合格への近道なのだ。休んでいる暇はない。
 苦手な英語の長文問題を一通り解き終わったとき、傍らに置いていた携帯電話が鳴った。液晶画面に映し出される文字に、聡子は一瞬息を止める。

「山田次郎」

 聡子よりもずっと多忙な生活を送る彼が、電話をかけてくるというのは珍しいことだ。更に、ある事情のために聡子の方からも彼にかけることはほとんどない。声を聞くのは久しぶりだ。
 夜遅くの電話は迷惑だが、声が聞けるのは嬉しい。しかめっ面の口の端を緩ませながら、聡子は携帯電話を取り上げた。

 「……もしもし」
 「あ、聡子ちゃん。ゴメンね、寝てた?」
 受話器から聞こえてくる低い声。優しい響きに、聡子の心がとくんと跳ねる。たった一言声を聞くだけで体が震えるほど嬉しい。
 「勉強してた」
 口から出た自分の声が思ったよりも乱暴で、聡子は慌てて口を閉じた。本当は嬉しくてたまらないというのに。気まぐれに掛けられた電話に体全体で喜んでいることを悟られたくなくて、いつも不機嫌そうな声を出してしまう。

 「受験生は大変だねえ。でも、早く寝ないと美容に悪いよ」
 男は聡子の声の調子を大して気にする事もなく、あっけらかんとした口調で言った。
 「ありがと。山田は?今日は仕事は?」
 「もう終わったんだ。今、家に帰ってきたとこ。聡子ちゃんの声が聞きたくなって……邪魔してごめんね」
 「ううん……」

 声が聞きたかったという男の言葉を、聡子は涙が出るほど嬉しいと思った。男はいつだって真っ直ぐに気持ちを聡子に伝えてくれる。会えない時間の多さや、二人を隔てる距離や立場の壁に、聡子が不安になる事がないように。なのに、自分ときたらどうだろう。おかしな意地を張って、せっかくの電話も素直に喜べないでいる。

 「私も……」
 「ねえ、聡子ちゃん」
 このときくらいは素直になろう、そう心に決めた聡子が呟いた言葉は、男の声に掻き消された。
 「どうして、そんなに不機嫌なの?」
 電話が迷惑だったのかという問いに、聡子が必死になって違うと言うと、男は電話の向こうで小さく笑った。
 「じゃあ、照れ隠し?」
 「へ?」
 「俺の声が聞けて嬉しくてたまらないんでしょう。それを、俺に悟られたくなくてそんな……」
 図星だ。聡子の顔が一気に赤くなった。受話器に当てた耳が熱い。たったアレだけの会話でそこまで分かるとは、さすが「恐怖の大魔王」を自称していただけの事はある。
 「あーもう聡子ちゃん可愛いなあ。そんなに俺のこと好きだったら、東京に進学しておいで」
 「違う!そんなんじゃ……!」

 思わず声のトーンを上げた時、彼女の背後にある部屋のドアが開く音がした。振り返ると、パジャマ姿の母親が半分ほど開いたドアの隙間から半身を覗かせていた。片手でドアを、片手でバスタオルを持った彼女は、髪をタオルでわしわしと拭きながら聡子に言った。
 「お母さん先に寝るわよ、さこも早くお風呂入っちゃって……あら、電話中?誰?」
 「あ〜、何でもない何でもない。お風呂ならもう少ししたら入るから!おやすみなさい!」

 とっさに携帯の通話口を手で押さえたが遅かった。母との会話は、間違いなく日本全国に張り巡らされた電波網を伝って数百キロ離れた所にいるあの男の耳に届いただろう。
 受話器の向こうで満面の笑みを浮かべる男の姿を想像して、聡子は憂鬱な気分になった。そのまま「切」のボタンを押してしまいたかったが、向こうはそのつもりはないらしい。受話器を耳から離していても聞こえてくる男の声に名前を呼ばれて、聡子はしぶしぶ携帯を持ち上げ、再び耳に当てた。

 「さーこちゃん」
 ほら、やっぱりこれだ。聡子はがっくりと肩を落とした。
 「今の聡子ちゃんのお母さん?何でさこって呼ばれてるの?」
 「……知らない」
 先ほどの決意もどこへやら、すっかり不機嫌な声に逆戻りしてしまった聡子はぼそりと答えた。
 男はふうん、と言うと、楽しそうな声を出す。
 「じゃあ、俺が当ててみていい?」
 随分自信がありそうな言い方だが、いくらなんでもこれは当てられないだろう。
 どうぞご自由にとそっけない声で聡子が言うと、男はうきうきと話し始めた。
 「聡子ちゃん、小さい時には自分の名前をちゃんと言えなかったんじゃない?いつも途中で口が絡まって、自分のことを「さこ」って呼んでた。違う?」
 「……〜〜〜っ」
 どうして分かってしまうのか。この男はやはりただものではない。きっと、聡子の考えていることなど何から何までお見通しなのだろう。
 「何で分かるの」
 この男には敵わない、そんな思いで呟くと、男の短い笑い声が聞こえた。
 「聡子ちゃんのことなら、何でもお見通しだって。だからね、諦めて東京においで。毎日声を聞かせてあげるし、毎日触らせてあげる。視覚でも嗅覚でも、五感全部を満足させたげるから」

 もちろん、一年三百六十五日。

 甘い言葉で囁いた後で、男はこんな時間だ、おやすみと電話を切った。

 拍子抜けするほどあっさりと耳元を開放された聡子は、しばらくの間携帯を持ったまま固まっていた。携帯の液晶画面をぼんやりと見つめていると、先ほどの男の言葉が耳に蘇ってくる。

 「あれって、もしかして……」
 その時は気付かなかったが、冷静に考えると、自分はかなりスゴイ事を言われてしまったのかもしれない。
 「いやいやいやいや……そんなわけないそんなわけない」
 これ以上考えるのはよそう、きっと男の思うツボだ。
 聡子はこれ以上ないほど赤く火照った顔を、脇のベッドに押し付けた。

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